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渡辺清の名著『戦艦武蔵の最期』に描かれた日本海軍の戦艦が発見される!1944年から行方不明。

戦艦武蔵の最期』(1982年)朝日新聞社渡辺清著に描かれ第二次世界大戦中に沈没した戦艦「武蔵」を発見したと、Microsoft共同創業者ポール・アレン氏が3月3日、自身のTwitterアカウントで報告した。 
武蔵は1944年、フィリピンのシブヤン海に沈んだ。アレン氏は水深1キロに沈んだ武蔵を、同氏所有のヨット「Octopus」号が見つけたとし、
Twitterに写真を投稿。船首に菊の紋があり、巨大な錨があるとしている。
同氏はバルブの写真も投稿しており、バルブの中心の部分に「開」などの漢字が書かれているのが見える。
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北緯12度50分、東経122度35分
「砕かれた頭蓋骨、どろどろの脳液、吹っとんだ首、縄のようにもつれた腹わた、ちぎれた手足、そして床一面の血だ。血は折り重なった死骸の下をあらいながら、入り口のへしゃげた防水扉の隙間から通路がわへぴたぴたと流れ出た。天井やまわりの壁もはねた血でずっくり濡れ、ところどころ肉片が平たくはりついていて、そこからも血の滴りが雨だれのように垂れていた。」(160-161頁)
「・・・少し先へいくと、応急員のマークをつけた、まだいかにも子供っぽい面長の少年兵が、何かぶよぶよしたものを引きずりながら、横向きになってもがいていた。
歯をくいしばって振っている顔は、すでに死相をうかせて土色だった。
見ると、腹わたをひきずっているのだった。
腹わたは血につかって彼の足元にもつれた縄のようにひろがっていた。
うす桃色の、妙に水っぽいてらてらした色だった。
少年兵は途方にくれながら、わなわなふるえる両手でそれをかきよせ、もう一度それをさけた下腹の中へ一生懸命押しこめようとしていたのだ。そうすれば、またもと通りになると思ってでもいるように・・・・・・。」(197頁)
渡辺清戦艦武蔵の最期』朝日新聞社(1982年)
自ら進んで海軍に入隊した渡辺は、戦艦武蔵に乗船し、1944年にレイテ沖海戦を体験することになった。レイテ沖海戦とは、フィリピンに上陸した連合国軍を迎撃するため、日本海軍がおこなった勝算の少ない殴りこみ作戦(捷一号作戦)で生じた戦闘のことであり、ここで不沈艦といわれた戦艦武蔵は多数の魚雷・爆弾を受け沈没した。渡辺は、『戦艦武蔵の最期』で、凄惨を極めた武蔵の艦上の様子を、体験者でなければ書くことはできないリアリティーでもって描いている。
こうした記述をとおして渡辺が伝えようとしているのは、
「その死は一様に醜く無残だった」(205頁)ということである。

戦場における死は「『勇ましい』ものでもなかった。
『立派なもの』でもなかった。
『美しい』ものでもなかった。
みんな踏みつぶされたボロ布か虫けらのように死んでいった」のであり、「おれはそれをこの眼で見たのだ」(同)。渡辺は、「一様に醜く無残だった死」を、「ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさを、哀しさを、そして空しさ」(266頁)を人々に伝えなければならないと思うようになる。死んでいった者の悲痛な叫びを、誰かがかわって伝えなければならない、それこそが残された者の義務なのだ。
そこで書かれたのが『戦艦武蔵の最期』だったのである。

かれらが利害を持たない他人や他の民族の人々に冷淡・残虐であった事実(ときに父母兄弟にさえそうであったろう)は勿論、<一様に醜く無残だった死>も、<ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさ、哀しさ、そして空しさ>も存在しない。
靖国神社は、『戦艦武蔵の最期』で描かれたこうしたリアリティーを排除したうえに成り立っているのである。
、、、だから、きっとそうするだろうと思った。
それでこそ「我らの大元帥」だと思った。ところが天皇は謝罪一つするでなく、ぬけぬけと居直ってしまった。
「民草」(たみぐさ)も「赤子」(せきし)もただの言葉、結局時の状況に巧妙に同化して己れの転生を計ることだけに窮々としていたんだ。そのために失われた三百万の犠牲も天皇にとっては所詮一条の煙り、脱ぎ捨てた軍服と一緒に忘れてしまえるようなものだったのだ。
そうして当節では、マス・コミの「御輿」(みこし)にのって、「人間味あふれる」だの、「ご生物学者」だの、「慈悲深い父君」だの、「民主的で和やかな天皇家」(このおどろくべき形容矛盾)だのと、週刊誌の口絵を賑わし、正月ともなれば、高みから帽子をふって愛嬌をふりまいたりしている。
まことに恬然たる実に「寛仁大度な御姿」だ。
もっともこのおどろくべき見事な転身は何も天皇に限ったことでなく、それはそのまま日本人の精神構造を「象徴」したものだと思う。とりわけ戦中、おれたちをペテンにかけたおエラ方の多くは口をぬぐつてふたたび政・財・官で幅をきかせ、やれ「所得倍増」だの「高度成長」だの「経済大国指向」だのと物質主義を謳歌し、そのためにことあるごとに天皇を担ぎまわって利用している始末。

むろん彼らのいいなりになって利用される天皇天皇だが、戦後このかた「たみぐさ」のおおかたも、そういう天皇にそれほどこだわっていないようだ。
こんなことだと、そのうちにこの国に「社会主義天皇制」などというバカげた制度ができるかも知れない。希望は捨てたくないが、楽観できる根拠は乏しい。
何れにしろ、鈴木よ、これが「我らの天皇」だったのだ。
天皇の正体だったのだ。
それとは知らずあんな「大真面目」な遺書を本気で書いた俺たちこそ、いいつらの皮だった。
それを思うと、心忸怩として、俺は死んだお前が無念でならぬ。
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渡辺清氏は、16歳で志願し海軍へ入隊した。
「幼児から『国家の規格品』として身ぐるみ兵隊につくられていた。」
志願して入った海軍では、「甲板整列」という名の下で、「尻を出して、足を開け、手を上に上げろ」と言われ、上官による尻を棒で殴られる毎晩のの凄絶なリンチ
「僕は人間ではなく兵隊だった。」。
1944年10月のフィリピン沖海戦、戦艦武蔵の乗組員。乗組員2300名のうち、2/3が戦死。
生きて日本の土を踏んだのは、400名。
渡辺氏は、そのうちの一人だった。
天皇を頂点とするこの国の国家組織の恐るべき欺瞞」を見ぬけなかったのか
渡辺清氏は、もちろん、朝鮮、中国、東南アジア諸国に対して日本は「一方的な侵略者であり加害者でした。」と断言している。
また、
「なぜ、日本海軍には一隻の『戦艦ポチョムキン』も出なかったのか?
60万もいたという水兵の中から、なぜ、一人のマトゥシェンコ(ポチョムキン号叛乱の指導者)も出なかったのか?」と書かれている。
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あの残虐な戦争の時代、最も勇敢で、最も聡明で、最も美しい日本人は反戦・反軍のたたかいを貫き通して倒れた若者たちだ。
腐敗を極めた軍事財閥の薄汚い侵略強盗殺人共犯者として諾々と特攻して行った情けない人間のクズとしてのパシリ神風特攻隊や朝鮮半島慰安婦買春に明け暮れていた侵略強盗殺人の日本軍犯罪英霊兵士ども。
侵略強盗殺人で家族を殺されたアジア幾百万の被害者が靖国英霊兵士を許すことはないだろう、
誰が参拝しようがどれほど華美に祀り上げようが薄汚い侵略強盗殺人犯罪者として永遠に東京九段の宙空を彷徨うしかないのだ。
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