土砂投入と空母
あの大戦での海没死の国民は35万人を越える。
人として許されることではない。
日本人でこの鬼畜集団自衛隊・防衛省の蛮行を許す者は一人もいない。
日本人でこの鬼畜集団自衛隊・防衛省の蛮行を許す者は一人もいない。
苦しみながら死にたくない死を死んで行った国民が今も海底に横たわっている。
八杉康夫上等水兵(当時)が回想する戦争
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、 あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合 う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、 あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合 う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、 あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。(辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ 救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ 藻屑トナラン シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ルココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、 犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)
(吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)