全ては軍部と軍事財閥による税金・国民資産の収奪による「日本全土困窮」であった。
軍事財閥と自衛隊という究極の利権集団が、掛け替えのない沖縄の美海という国民資産を番犬司法と暴力組織を使って強奪しているあの侵略強盗基地建設強行の泥棒構造と同じものだ。戦前から今日まで極右という利権集団は「教育」「防衛」「脅威」などの政治的言語を詐欺マスコミを使って国民資産強奪に使って来た。
2・26事件で、教育勅語を叩き込まれたチンピラ将校に惨殺されたのは
昭和11年2月26日未明である。
教育総監渡辺錠太郎大将邸を襲撃したのは、斎藤實を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎、安田優の両名と、下士官以下兵三十名であった。携行した兵器は軽機関銃四、小銃約十、拳銃若干であった。
渡辺錠太郎大将の長女政子さん当時33歳の証言
母は両手をひろげ、兵たちが父の寝室へ行くことをさえぎったのでございます。ところが、そのさえぎりもきかず、縁側づたいに父の寝室のほうへ回り、そこに機関銃を据えて、うったのでした。父の体に当ったタマの数は四十三発。肉片が天じょうにまでとびちり、それはむごい仕打ちでございました。右フクラハギの肉は、機関銃の夕マでとぱされてなくなり、顔から肩にかけてはとどめのカタナ傷が二つ。後頭部にはやはりとどめのピストルの一発がうちこまれ、穴があいておりました。・・・機関銃というのは、外で使うべき武器なのに、それをあの将兵たちは十メートルもはなれていない部屋の中で使い父をうったのです。
それと三十名の将兵の中に歩兵三連隊の兵がまじっていましたが、ここは父がいた部隊で、そのエリ章を見たときは、さぞかし父も無念であったろうと思います。母はエリ章を見たとき、わが目を疑い、支那の兵隊がきたのかと錯覚さえ起したそうでございます。
将兵たちが引きあげて行った庭の雪の上にも血の跡が残されており、それを見たときは私は一体、このさき、日本はどうなるかとそんなことばかり思っていました。
教育総監渡辺錠太郎大将邸を襲撃したのは、斎藤實を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎、安田優の両名と、下士官以下兵三十名であった。携行した兵器は軽機関銃四、小銃約十、拳銃若干であった。
渡辺錠太郎大将の長女政子さん当時33歳の証言
母は両手をひろげ、兵たちが父の寝室へ行くことをさえぎったのでございます。ところが、そのさえぎりもきかず、縁側づたいに父の寝室のほうへ回り、そこに機関銃を据えて、うったのでした。父の体に当ったタマの数は四十三発。肉片が天じょうにまでとびちり、それはむごい仕打ちでございました。右フクラハギの肉は、機関銃の夕マでとぱされてなくなり、顔から肩にかけてはとどめのカタナ傷が二つ。後頭部にはやはりとどめのピストルの一発がうちこまれ、穴があいておりました。・・・機関銃というのは、外で使うべき武器なのに、それをあの将兵たちは十メートルもはなれていない部屋の中で使い父をうったのです。
それと三十名の将兵の中に歩兵三連隊の兵がまじっていましたが、ここは父がいた部隊で、そのエリ章を見たときは、さぞかし父も無念であったろうと思います。母はエリ章を見たとき、わが目を疑い、支那の兵隊がきたのかと錯覚さえ起したそうでございます。
将兵たちが引きあげて行った庭の雪の上にも血の跡が残されており、それを見たときは私は一体、このさき、日本はどうなるかとそんなことばかり思っていました。
1936年(昭和11年)2月28日夜から29日(にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。
2015年1月8日産経新聞
「教育勅語」や「五箇条の御誓文」の朗唱、伊勢神宮への参拝・宿泊…。大阪市淀川区に超ユニークな教育を園児に施している幼稚園がある。塚本幼稚園幼児教育学園。安倍晋三首相夫人が同園を訪れたとき、園児らのかわいらしくもりりしい姿を見て、感涙にむせんだという。さて、その塚本幼稚園の籠池泰典園長が、小学校運営に乗り出している。
・・・・・・・「子供に学んでほしいことは何か、とつきつめたとき、その答えが明治天皇が国民に語りかけられた教育勅語にあったからです」と籠池泰典園長(61)の答えは明快だ。
あどけない幼児が大きく口をあけ、難しい言葉を朗唱する姿を初めて見た人は一様に驚き、感動する。安倍首相の昭恵夫人もそのひとりだ。
昭恵夫人は昨年4月、同園の視察と教職員研修のため訪れたとき、鼓笛隊の規律正しいふるまいに感動の声を上げた。さらに、籠池園長から「安倍首相ってどんな人ですか?」と問いかけられた園児らが「日本を守ってくれる人」と答える姿を見て、涙を浮かべ、言葉を詰まらせながらこう話したという。
「ありがとう。(安倍首相に)ちゃんと伝えます」
「教育勅語」で育て上げられた昭和軍部で人間のクズでない者は一人としていなかった、と言われる。
「将校専用の娼家」があり、「(「教育勅語」を叩き込まれた)将校たちは、カネとヒマにまかせ毎夜のごとく連れだって出かけて行った」というのだが、戦地でお気楽なものである。実のところ日本の将校は、どこでもこんな感じだった。あんまりお気楽に酒と性の進軍をしているので、ラバウルに赴いた木村昇吉は、「もうこの戦争は勝目がないだろう」と嘆いた。
(「教育勅語」を教え込まれた)日本軍の後には料亭が従うといわれるくらいで、驚くほどの数の料亭が進出してきていた。これは昭南に限らず、南方占領地域の主要都市では、みなそうであった。もちろん戦前からのものもあったが、大多数は占領後に進出してきたものである。一番盛んなときは、東京から来た芸妓が昭南に200人いたという
(本田忠尚 『茨木機関潜行記』 p12 図書出版社 1988)
「(教育勅語」に育てられた日本皇軍目当ての)昭南における料亭開設の乱脈ぶりは物すごく、南幸女学校、南洋女学校などは建設会社の手で改装して、立派な日本風の料亭とし、絃歌と嬌声が響いた。その他適当な建物があると、すぐ料亭または慰安所となった。その数は何十軒もあったようだ。(大西覚 『秘録昭南華僑粛清事件』 p233 金剛出版、1977)