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金鍾泌「日本軍が慰安婦をだまし連行するのを直接見た。読売新聞渡辺会長はもちろん、論説委員の誰も返事ができなかった。」

中央日報2015.05.06 韓国の有力な政治家で親日家の金鍾泌氏が従軍慰安婦について真実を語った。
イメージ 12002・皇居・天皇と歓談した金鍾泌首相(当時)

朝鮮人慰安婦」問題は、歴史的に重要な問題だが韓日会談で取り上げられていなかった。
1951年から65年までに行った14年間の会談で慰安婦は一度も議題になったことがなかった。

62年11月、私が大平正芳日本外相と請求権談判を行った時もこの話は取り出さなかった。
この問題を知らなかったわけでもなく、日本の過ちを追求しようとする意思もなかった。

それが当時の私たちの社会の暗黙的雰囲気であった。

当時、慰安婦はひどい戦場を転々としながら、人間以下の最低奈落に落ち九死一生で生き返ってきた人々だ。
全身と心を傷付けた人々だった。彼らの年齢はまだ30代から40代前半で若かった。凄惨な苦労を経験した後、
やっと故国に戻って結婚をして子供を産んで家庭を設けていた。彼らの過去の歴史と傷をえぐり出すのは2重・3重の苦痛を抱かせることだった。

昨日と今日と明日は嫌いであろうが好きであろうがつながっている。光復(解放)70年の今年、日本の植民地帝国主義治下慰安婦問題は、相変わらず現在進行形である。政治と経済・社会・文化が複雑に絡み合っている21世紀の世界で、日本は一人で生きていくことができない。

日本は歴史の痛みを与えた韓国・中国など隣国を理解し共存・共有することができる道を開かなければならない。
今生きている慰安婦のおばあさんたちは、何人いるかわからない。その方たちが安心して平和にこの世を去ることができるようにして差し上げるべきである。
 
昨年、日本政界の大物である小沢一郎生活党代表が韓国を訪れ、私とともに昼食をとったことがある。
私は彼にこう言った。「今、安倍首相は30年代の日本で軍国主義が盛んだったあの頃を連想させる人物である。
これについて安倍は考えるべきで一匹狼のように推し進め、集団的自衛権を訴え右翼を刺激すれば非常に危険である。
あなたも過度に右翼だが、安倍首相は更にそれは大きい。このような事を続けていてはどこかで必ず問題が生じる」と述べた。

私は続いて「慰安婦問題も、私たちが正当な解決策をすべて出したのだから、安倍は反省して謝罪する姿を見せるべきだ。
真相をどんどん否定すればするほど問題の解決がより困難になる。安倍首相に対して、私の言葉を伝えてほしい」と要請した。

小沢代表は黙々と聞いたところ、「(日本に帰って)行って首相に話したい」と答えた。
過去の歴史に対する日本の態度は、ドイツのメルケル首相とあまりにも対照的だ。
メルケルナチスホロコーストを永遠に反省して謝罪する。

慰安婦問題は、ホロコーストに比べて規模は小さいが、日本は必ず過去を記憶して謝罪しなければならない。
慰安婦問題を論じるに忘れることができないことが一つある。2001年は年初から韓日両国が過去の問題を置いて葛藤が激化した。

日本で韓日併合を正当化して慰安婦の内容を削除するなど、歪曲された過去の歴史を盛り込んだ中学校の歴史教科書が正式教科書として採用される状況であった。
ここでは、与野党の議員が日本の歴史教科書歪曲の中断を要求する決議案を採択して、市民団体は、日本の謝罪と反省を促すデモと集会を相次いで開いた。
しかし、日本政府とメディアはずっと誠意のない態度ととんでもない反応を見せた。

読売新聞は3月2日付の社説で「日本は思想の多様性を可能にする国だ」という見出しの下に
「挺身隊は、戦争時勤労のために動員されたもの」とし、中国と韓国が歴史教科書歪曲に対して抗議することを「干渉」と批判した。

慰安婦が強制動員されたという史実を「デッチアゲ」と表現した。
当時、自民連名誉総裁として一線から退いた私も黙っていられなかった。ちょうど日本に滞在していた3月7日、韓日議員連盟会長の資格で
リュフンス(連盟幹事長・ハンナラ党)・チャン・ジェシック(副会長・自民連)・イ・ヨンス(運営委員長・新千年民主党)議員と共に読売新聞社本社に攻め込んだ。
社長室のドアを開け入った私は、渡辺恒夫(・2005年から会長)社長兼主筆にいきなり鋭く言い放った。「オイ、恒夫さん。こんなことがあるか?あんたの年齢ならこの様な文は書けなかったはずだ。
この記事は誰が書いた?これを書いた論説委員たちを全員呼んで来い。」 渡辺は私と同い年で長年の日本の友達だ。

1961年、私は35歳の時、池田首相に会うために韓日会談密使として日本を訪れたとき、彼は政治部記者として大野半僕(大野伴睦自民党副総裁室を出入りしていた。

彼は昨年、日本文藝春秋9月号に書いた寄稿で私を"韓国経済の爆発的成長を実現させた功労者」として表現した。
しばらくして文を書いた当事者を含めて編集局長と論説委員が集まった。
彼らが来るやいなや私は日本語でまくし立てた。「あんたたちは、支那事変(日中戦争・1937?45年)が起きたとき何歳なのか。
その当時、日本軍の服装が分かるか。ハンティングキャップを被って詰襟(襟が首を囲み密着した服)その上に上着かけて、下は短袴パンツ(下は狭く太もも部分は、広々とした乗馬服のようなズボン)を着て、脚絆(ゲートル)、地下足袋、後ろポケットに白いタオルを差込み...。このような奴らが歩き回り「すべての軍隊が出て行ったせいで工場の人手が足りない。
だから女性が工場で働いてお金を稼ぎ母・父に送ることができて良くはないか」と、このように騙した。

この場面を私は実際に自分の目ではっきり見た。このようにして募集した女性の一部は、工場に配置したが、大部分は直ちに強制的に中国に送っておいて慰安婦の役割をさせた。これをどうして「デッチアゲル」と?これは私の頭の中に写真のように鮮明に残っており、私の中・高校時代、
故郷で起きたこの状況を生き生きと私の中に蘇らせる。日帝時代の慰安婦として連行された朝鮮の妹を直接見た私の怒鳴りに渡辺会長はもちろん、論説委員の誰も返事ができなかった。彼らは慰安婦を「貧しくて体を売る女性たち」という程度の認識であった。

ついでに日本の報道機関を一通り回った。翌日は朝日新聞を見つけ、日本の歴史教科書の歪曲状態を詳細に知らせ、その次の日は、産経を見つけ報道態度に抗議した。
これまで日本の戦中世代、良心的な知識人たちは慰安婦強制動員を認めてきた。朝日新聞従軍記者伊藤正則が代表的なケースだ。
彼は太平洋戦争終戦後を書いた帝国陸軍の最後」(1960・文芸春秋社)という本の中で慰安婦の存在を比較的詳しく記録した。
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この本によると、手先が器用そうに見える女性は工場に連れて行ったが、そうでない女性は、中国大陸に連れて行って軍隊慰安婦にした。
日本軍が満州に行けば慰安婦満州で、ベトナムに行けばベトナムに連れて行った。太平洋戦争が起こると、日本軍は各島に散らばった。
龍山(ヨンサン)に進駐した日本軍20師団は、輸送船に乗ってニューギニアに向かいましたが、米国の潜水艦が撃った魚雷に当たって船体の半分が海の中に沈んだ。
その時、船に一緒に乗っていた従軍慰安婦も同じ運命を迎えた。伊藤の本はしばらくして、日本で探し出すのは難しくなった。
おそらく誰かが慰安婦の証拠をなくすためにそのようなことをしたのだろう。 

慰安婦の話を取りあげにくかった私たちの社会の雰囲気は70年代も似ていた。
私が総理大臣をしていた時代である。1971年5月~72年3月までの10ヶ月の間、既存の韓日協定の請求権とは別に、日帝時代の民間人の被害者の補償のために「対日民間請求権申告」窓口を開いたことがある。
その後、合計14万件、金額では約40億ウォンの申告が受け付けられた。

ところが、慰安婦被害が申告された事例は一件もなかった。申告の70%は、銀行預金であり、そのほかに国債・生命保険・ゆうちょ・社債・戦争死亡者等に関するものであった。
今その方たちが表に出て、日本軍国主義の弊害を告発し、人類普遍的な人権の価値を訴えているのは、彼等の犠牲と献身に違いない。
整理=ジョンヨウンギ・チェジュンホ記者
ttp://joongang.joins.com/article/684/17736684.html?ctg=1000


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