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安倍極右カルト政府が米国に取り込まれていることを示す記事が今日の「西日本新聞」に掲載された。

「cultivate」と書かれている。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸信介をさらに「磨いた」。
2015年、米国は更に岸の孫を、磨き切り手中のものとして転がしている。
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西日本新聞 10月12日(月)
憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。
文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
 「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇アメリカ」=2010年刊から)
 63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。

ティム・ワイナ-『CIA秘録』文藝春秋 2009
「敗戦後の日本で最初にマッカサ-総司令部のスパイとなったのは、戦時中、帝国陸軍参謀本部第二部長として諜報責任者のポストにあった陸軍少将有末精三である。
19457月、日本軍の降伏を目の前にして、戦争犯罪人として処刑されることを怖れた有末はそれをGHQの諜報関係の責任者チャ-ルズ・ウイロビ-少将に差し出し、その秘密工作員となることを申し出た。ウイロビ-の指示に基づいて、有末は、参謀次長の陸軍中将河辺虎四郎を中心とする帝国陸軍の高級指揮官から構成されるスパイ・チ-ムを編成し、積極的な諜報活動に従事することになった。
有末の工作員として活躍したのが児玉誉士夫であった。
児玉は戦時中、占領下の中国を舞台に数千人の工作員を使って、戦略物資からアヘンにいたるまで、日本軍が必要とするありとあらゆるものを買い付け、盗みとった。
----敗戦後間もなく、児玉はA級戦犯として、巣鴨刑務所に収監された。」
 「19481223日、東條英機を始めとする7名のA級戦犯の絞首刑が執行された、その翌日、岸信介児玉誉士夫の二人は巣鴨刑務所から釈放された。東條内閣の重要な閣僚として、また「満州国」の経営に中心的な役割を果たした岸信介と昭和の極悪人ともいうべき児玉誉士夫の釈放が、当時の日本国家の官僚に与えた衝撃は大きかった」

ニューヨーク・タイムズ紙ピュリッツアー賞受賞記者ティム・ワイナー作『灰の遺産 CIAの歴史』
日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。
・・・岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。
カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソン[William Kinsey Hutchinson]を招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。
・・・その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明かに、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
・・・・ 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。