腐敗を極めていた日米安保自民党の戦後体制に真正面から闘いを挑んだ若者たちが東大安田講堂、神田解放区を初め各地で数万の機動隊と激突していた数日後、1969年1月、東京五輪開会式作曲担当のミュージシャン小山田圭吾が東京で生まれている。
奴隷の再生産が永続する鉄壁のシステムに若者たちが真っ向から闘いを挑んだ時代であった。
小山田圭吾が生まれた数日前の成人式1月15日に「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という哀切な日記を書いた聡明な女性が自死したのは圭吾の誕生日の約半年後である。
その頃、
子供たちを社会の荒廃から、子供たちを教育の荒廃から、子供たちを精神の荒廃から組織を上げて守ろうと闘って来た日本教職員組合(日教組)は腐敗自民党・腐敗財界・安保軍事体制の総攻撃を受けて敗退しつつあった。
腐臭を放つ軍事屋の強権社会が完成に向う1980年代、子供たちが荒廃させられた精神と腐敗社会の坩堝から生み出されて行った。
小山田圭吾の1980年代はそういう時代に規定されていた。
きょう夕方、
東京五輪・パラリンピック組織委員会は「組織委員会は小山田氏の行為は断じて許されるものではないと考えますが、先日、本件についての反省とお詫びを受け入れ、開会式が迫っているなか、引き続き準備に努めていただくことを表明しました。これは誤った判断であると考えるに至り、辞意を受け入れることにいたしました」と、辞任を受理したことを発表した。 (この項続く)